お葬式。
何かあることは、介護者に降りかかります(;'∀')
台風が去っていきました。台風とともに、世の認知症や脳疾患も消えてしまえばいいのにと思いましたが、無駄でした。
今日、母とお葬式に出かけました。母にとって、義姉にあたる人が亡くなったためです。
「誰が死んだの」
「どうして知っているの」
「いつ亡くなったの」
など、ずっと母から何度も聞かれました。紙に書いて、貼っておいたり、そこらに置いておいたりしました。聞かれたら、指差ししました。くどひろさんのブログから学んだことです。
母が恐ろしいぐらい聞いてくるのは、斎場でも、JRでも聞かれました。「あそこにいるのは、〇〇君(自分の孫)かな?」いるわけがありません。ほかの人です。
母だけかもしれませんが、気になったらお坊さんが読経中だろうが、棺にお花を入れる最中だろうが、私に聞いてくるのです。それも、何百回言ったであろう、故人の名前だったりします。イベント性がより一層忘れさせているようです。今、ほかの人が聞いたら呆れられるかも、という考えはとうになくなったように思えました。
それにしても、同じ浄土真宗でも流れが違うような気がしました。
地域性もあるのかもしれません。亡くなった方は、良くも悪くもしっかりした人だったので、お寺とご縁が薄かったようです。父方母方とも、お寺とご縁がある人が多いので、高齢でありながら、寺社教会とご縁が薄い方は珍しいなと思いました。(失礼しました)
そして、高齢化とコロナが影響したようで、お葬式の人数は父の時よりずっと少なかったです。これは、時代の流れで仕方のないことかもしれません。
亡くなった人がいたであろう、特別養護老人ホームからの電報もあり、昨今倍率が高くて入りにくいと聞くのに、よく入居できたなという思い、いつかそういうところへ、私も母を託すことになるのか、と胸がつまる思いがしました。
今後、誰が亡くなったかメモは、常に手元に置いておこうと思いました。
家に帰っても、誰が亡くなったのか、どうして亡くなったのか聞かれ続けました。思わず、「え!?」と驚いたら、「私、忘れてしまった…」としょんぼりしていました。
反応次第では、忘れたことを思い出させるようです。
まだまだ、認知症の母との暮らしは続きそうです。在宅でどれだけ一緒にいることができるのか、考えても仕方のないことを考えてしまいます。